世界構想圏 ~森本純輝の社会思索ラボ~

「個の内包的全体性」から模索する社会理想像のアプローチ

2 なぜ、人々は特定の情報だけを信じたがるのか

今日は前回に引き続き、この記事についても一個人の呟きとして投稿することを目的としたものになる。よって、半分流し読み感覚で一読いただけると幸いである。

 

1 コロナ禍で浮き彫りになった、情報の確執化

今、世界は新型コロナウイルスの蔓延によって経済や社会が激しい打撃を受け、著しい混乱の一途を辿っている。その多大なる影響によって、社会経済だけでなく人々の心や精神をも深く疲弊させ、鬱積をより顕在化させた表れとして我々を蝕み続けている。それは完全に明白であり、暗いベールが席巻する現代において、ますますその拍車をかけることになった引き金と言えるかもしれない。

 

だが、その一方で「コロナは存在しない」「ワクチンは百害あって一利なし」という見解あるいはその情報に基づく一部の人たちによる主張もまた顕在化しており、「反ワクチン」や「全体主義の下準備としての生物兵器の利用」といった見解で、世間の人たちに警鐘を鳴らしている。それらは絶大な権力を持った一部の資本家たちによってもたらされた、人口削減計画と世界政府による全人類の完全支配への布石という見地に端を発するものである。

その上で、昨今の人々はこれを「根拠のない煽り」や「確実性のない陰謀論」として一蹴し、耳を傾けることをせずに大手メディアが報じる「コロナの危険性」という主張を受け入れている。

 

しかし、人々を見る限り、それはあたかも「コロナが存在するという情報こそが正義」であると見受けられるような態度を取る発言もところどころに見受けられる。その証拠として、そういった主張をする人々に圧力をかけたり、激しい非難を浴びせるといった行為も散見する。それは「コロナを心配するというよりも、コロナは危険であるという意見に収斂させようとする、一種の、いや、ほぼ確実な同調圧力」としての機能をはらんでいるように受け取れなくもない。

 

その現実を鑑みた場合、大多数の人々は「本当にコロナの危険性を憂慮しているのか」という疑問を浮上せずにはいられなくなってくる。なぜなら「コロナの危険性を信じること」と「コロナの危険性を押し付けること」は話の焦点が違うからである。どちらかというと、「主張を強要すること」に比重が傾いてしまっており、その根底には「危険性に対する思考の咀嚼」は存在していないように思えるのだ。その「思考を咀嚼することの希薄さ」は、メディアが主張しているから「だからお前もそれを受け入れろ」といった、話の主旨の入れ違いを正当化するものであり、それらの情報に対して理性的な思考をもって「まずは一旦その主張をすること自体をやめる」という結論に辿り着かないことを実現させてしまう。そして、それは今も根強く残る、同調性をよしとする日本人の精神構造をいつのころからかそれを同調圧力として変質させたことの表れとしての、民族的なイデオロギーがその意見を抹殺している姿とも受け取れてしまうのである。

そういったお互いの「自明の理」が互いに衝突し合い、それがこのコロナ禍により一層混乱の拍車をかけているということだ。

 

そういった視点から物事を見た場合、ある一つの大きな疑問に集約されてくる。

それがこの記事のタイトルである「なぜ、人々は特定の情報だけを信じたがるのか?」という問いである。それが、情報の真偽を自分自身の力で確かめ、最終的な決断を下すという行為を入れ込むことを決して寄せ付けない一つの先入観として顕在化していることになる。それはコロナ茶番説を信じる人たちの主張を正当化する、という意味のみをはらむものではなく、そういった人たちをも含めて、情報の真偽の可否に関わらず、「互いの意見の押し付け」、つまり感情的になって貫徹させようとする「情報の確執化」が情報の真偽を確証させていくステップを踏むことを著しく困難にさせている一つの要因になっているという意味に基づくものである。

 

2 世界にとっての「自明の理」

では、ここでところ変わって世界は今どうなっているのか?

今、韓国はマスクの着用を解禁する方向に進んでおり、その傾向に先立って世界ではマスクを外す国々が増えている。その中にはこの国で陰謀論者に位置づけられている人たちの主張と同じような立場を取った人たちが市民レベルで決起し、全体主義への対抗という形で大規模なデモを掲げている。実際、その方向へと向かわせようとする政府の政策をそのようなデモによって否決を余儀なくされた国もある。また、最近のアメリカのマスメディアの見出しには「我々は騙されていた」というタイトルが載るほどである。

今まで「陰謀論」として片付けられていた情報が、今や世界ではそれが当たり前になっているのだ。

そのような見地をもってしてもなお、ここ日本国内で「反ワクチンは陰謀論だ」と一蹴する立場を取ることが果たして賢明なのか、とここでも疑問に思わずにはいられないのだ。日本でも感染症にあまり有用ではないとされるマスクの着用や、その脳細胞への悪影響への指摘、ワクチンの有効性を疑問視する見識者や、そもそもにおけるコロナウイルスが存在することへのエビデンスに関する書類提出、果てはワクチン接種後の感染者の増大に至るまで、国内でもコロナやワクチンに対する疑いの主張がところどころで見受けられる以上、果たしてメディアが標榜する「コロナは危険」「ワクチンは安全」という話に信憑性があるのだろうか?

そのような視点に立ってみた場合、「単に情報を信じること」よりも「全体的な流れから数々の証拠や客観的事実を考慮した上で、総合的に見てそれらは虚偽であるのかもしれない」という結論に至ることが、今の日本人には必要なのではないのか、と思わずにはいられないのだ。

 

3 日本人の社会的精神構造がもたらした感情の画一化

ではなぜ、それでも日本人は「変わらない」のだろうか?

諸説あるとは思うが、そのうちの一つに「思考を深化させない」、つまり「物事を掘り下げて考える」ことが元々日本人には難しいとされるものがある。それは、「感情を優先させるのではなく、理性的になって物事を論理的に考えること」の困難さを意味するものでもあり、その心理背景には「右にならえ」のごとく世襲的な思考の画一化が個々の感情の同質化を与え、それが論理的な思考を阻んでしまっている、と個人的に解釈するのである。それによって、世間的に浸透している現象と日本人特有のそういった心理背景の形成が見事と言えるほどに同じ位置に収まってしまったがために、考えることをやめてしまっていると見受けられる。もっと簡潔に換言すると、コロナ禍という大きな規模での出来事が日本人独特の「同じように考える思考パターン」に非常にうまい具合に溶け込む、つまりその思考パターンが機能するような全体性をコロナという情勢自体が受け持っているが故に思考が止まってしまっているということである。もっと言うと、コロナが全体性をはらんだ問題であるが故に、そういった意味で民族規模での「認知バイアス」がかかっているのである。元々オカルトや陰謀論といった類の話に一度きりでも位置づけられてしまった情報は、全て完全に眉唾物として片付けられる、といった風習があり、それがどんなに信憑性や確実性に基づく情報だとしても、そういった分野に配属されてしまえば、二度と耳を傾けることをしなくなる、という性質が以前から日本人にあるが故だと解釈するのである。

その意味において、我々は一つの、一般の定義とはまた違った「情報格差」を経験しているようにも思える。その見えない格差が現在の時代に大きな軋轢を生み出しているのではないのか。そう思えて仕方がないのである。

 

そして、それは何もこのコロナ禍に限った話ではない。その事例の一つにシリコンバレーの展開する未来像、特に人工知能が世界を変えていく、といった世界観に対して、デジタル社会への危険性や現代文明適応への脆弱性が指摘されているにも関わらず、これらの警鐘に耳を傾けることをせず、その理想に酔いしれることをよしとする共通認識が日本人に広く根付いている、という現実も存在する。機械学習の情報提供におけるブラックボックス化や市民情報の独占と悪用も叫ばれている中、それらの警鐘は至極的を得た見解であり、それこそがこの事例一つとっても「自明の理」であるようにも受け取れるのである。

 

だが、こういった見解はしばしば「悲観論」や「歴史修正主義」といった分野に押し込められやすく、その主張に正当性があるのかどうかすらも検証される余地を与えられることがないのが現状である。あたかも世間一般に広まっている情報や認識こそが「自明の理」とでも言わんばかりに、その同調圧力をもはや権力のような形で利用し、反対の立場を取る人々を強制的に蹂躙している。それは、情報を流す主要媒体となっているマスメディアの言うことをそのまま受け入れ、その信頼性における依存から、主張を正当化することを強く擁護していることとも、相容れている。

 

4 我々はどうやって歩み寄っていくべきなのか、その答えを探すために

一つの視点をそこまで掘り下げてみた場合、最終的に考えずにはいられない論点に行き着く。我々はどうすればこの衝突を解消して、事態の建設的な発展を目指していけるのだろうか。そのような疑問に直面するのである。

そういった次なるステップへと踏むことを決めた場合、視点の違いという考えをどうしても含まずにはいられない。なぜなら、視点の違いが今の軋轢を生み出しているのであり、その両者の視点をどちらとも鑑みることをせずに互いに歩み寄っていくことは難しいからである。むしろ、私は、この「視点の違い」、そして「異なる世界で生きている」という見地にこそ、人々を一致団結させるための何らかのヒントが隠されているような気がしてならない。それはある種の直感のような感覚でしかない。だが、全く何の手がかりもつかめない以上、それが一つの指標として存在しているということは、それを応用する価値があるのかもしれない、ということであり、たとえどのような正誤があれど、まずはそれをもって検証していく、という姿勢にこそ重きを置くべき態度であると、そう認識している。よって、取り組んでみる価値はあるのかもしれないと個人的に解釈するのだ。それは非常に難関な道のりであり、決して生易しいものではない。だが、事態がその必要性を訴えている以上、挑まないわけにはいかない。

 

だからこそこのブログが存在するのであり、その新たに生み出された発見を社会に何らかの形で適応することができるとするならば、それこそは社会貢献の一つであると願ってやまないのである。

そういった意味で今できることは、私一人の努力から見るならば、今している専門書籍をよく読み込むことだったり、そこから得た着想を深化させていくことだったりするのかもしれない。だが、このような大きな課題は人一人で成し遂げられるほど容易なものでもないこともまた確かだ。今いる大勢の人たちが解決と発展のために視点の違いを乗り越えて事態の収束を試みる努力もまた、必要であるかもしれないと考える次第である。

これが意味することは、「同じ志を持った仲間を増やす」ということではないのか、と考える方もおられるかもしれない。実際そうではある。この問題に対する呼びかけといった形に呼応した人たちが何らかの形で決起し、共に社会の発展と貢献に根差した活動を継続していければ、私とてこれほど嬉しいことはない。だが、そういった意味ではなくても、個々人でできることがあると思う。情報収集だったり、社会に関する考えを深めてみたり、できることはたくさんあるはずだ。そういった個々の努力が何らかの形で結束することを可能にした場合、この日本社会だけでなく世界全体に対しても貢献できるだろうと見ている。それができたのであれば、世界は煌めきを再び発揮して次の世代へ大いなる可能性と希望を与えてくれる強大な一助となりえるのかもしれない。