世界構想圏 ~森本純輝の社会思索ラボ~

「個の内包的全体性」から模索する社会理想像のアプローチ

1 科学は決して悪のツールではなく「可能性」である

はじめに

この記事はある意味、私の決起としての宣言のようなものであると思う。一個人の呟きとして一読頂ければ幸いである。

 

1科学、そして現代社会は人の心や人間性を映し出した鏡そのものである

今現在において、何か特別な見識を得たわけではないが、ある映画の登場人物が述べる発言に関してかなり共感することがある。「アイアンマン3」での終幕あたりで主人公トニー・スタークが述べる科学の可能性についてである。

 

台詞をそっくりそのまま載せるにはもう一度この映画を観る必要があるが、それを抜きにするなら、おおむね以下の内容に要約されるはずだ。

彼が言うには、本来科学というものは文明の発展のために貢献する手段であり、その可能性に決して恣意的な意志ははじめから存在はしないはずである。だが、科学の代名詞である学者たちがいつのころからか道を踏み間違え、よこしまな意志を持つようになったりして、やがて科学が悪の権化として扱われるようになってしまう。だが、科学を使う人そのものに問題があるのであって、科学そのものは決して悪ではない。そのことを劇中で伝えていたのだ。

単に人の心理と片づけることもできる。また、全く違う視点で人は社会上のシステムに弱いという見方で一蹴することもできる。だが、この主旨をはらむ内容は科学、ひいては現代社会においても核心をついているような気がしてならない。

 

確かに現代のテクノロジーや科学知識は、目を見張る加速的な発展性が見受けられる一方で、世界の人々の情報を管理するために人工知能を利用し、ひいては個人情報を資産にして企業の利益を得たり、機械を軍事ロボットとして兵器に投入したりといった、どの側面から見てどう捉えても文明が栄えるような発展に貢献するものとは程遠い知らせばかりで、人類や地球の未来を奪うような不安定さが人々の希望を奪うのは無理もない話である。それだけ人の心は荒廃しきっている象徴であるともいえるだろう。

 

だが、人類には自らの種を存続させる権利と自己に対する責務がある。人間こそが自然界で最上位の地位を獲得した以上、自分たちの問題を自らの力で解決し、その上で破壊されてしまった地球生命の生態系を元の循環に戻す責務もある。他の生命と比較して高度な知能を得たということは、それを制御するための責任もまた生じるということであり、自然界の不和を描き始めたのも、自分たち自身である、という結末をちゃんと直視できるだけの勇気が必要である。もちろん再生可能エネルギーの普及を標榜する昨今の環境原理主義的な立場を取る活動家や、地球温暖化という観点からでの急進的な目覚めを訴求するつもりもない。それらは全て利益や既得権益に根差したエゴそのものであり、真に地球の生態系を考慮しての主張では決してないことは、幾多の書籍で指摘されており、その信憑性に無名の私が強調するまでもない。

 

だが、人類を構成している一個人として感じることは、科学を利用した独善的思考の成れの果てこそが今の現代文明の姿を映し出しているということであり、その「自分だけ」「カネだけ」「今だけ」の発想が人類文明を数世紀かけて自然界から切り離していった要因の一つであるということは、学識素人の私でも想像はつく。それがたとえ陰謀論でいうところの一部の資本家たちによる誘導や巧妙な仕組みが決定的な主因だという主張が存在するにしても、それだけが全てではない気もするのだ。

我々は、自分たちの心、もっと厳密に言及するなら自分たちの内面的構造の脆弱さに抗いきることを実現できなかったのだと、そう感じるのだ。その意味での「心の弱さ」が外部からの様々な誘惑に時間をかけて次第に突き崩されていき、それらに負けて自分たちの本来あるべき姿への追及を諦め、そして、静かに圧力や抑制をかける組織化された社会に参加してしまったがゆえに、自分自身で表面的な仮面を被り続けること、そしてその虚像の姿に転換することに居直ってしまったのだと思う。それが現在の資本主義であったり、社会システムそのものにある構造上の問題であったり、といった表出化された現象として露呈していることが現実の一つである。

もちろん、人は皆誰でも強いようにはできていない。そもそもにおいて、今の社会自体に自分たちが参加し続けなければ生存することができない構造で作られていることはもはや疑いようがない。それが結果的に我々に自身の弱さに対峙することから強引にでも乖離させてしまったことは、決して偶然ではない。よって強靭な内面の構築を諦めてしまったことはある意味仕方のないことではある。人の心理という視点から科学の腐敗を指摘するのもこのような背景から述べているものである。

 

2 我々はこれから巨大な激動に直面する

しかし、様々な方面から囁かれているように、これから人類史上これまでの苦難をはるかに凌駕する激動がいくつも迫りくることになる。それは今日叫ばれている食糧危機であったり、預金封鎖や世界的な金融危機第三次世界大戦といった人類文明側からだけではなく、気候変動や磁極反転、太陽フレアの襲来など、地球環境面からの脅威も幾度となく到来することになる。俗世的な類の意味ではない本物の世界の終末、あるいはそれに該当するような大艱難の時代が待ち受けているのだ。これから我々は存続の危機にたくさん直面することになるのだ。

「どうせ自分なんて」

「そういう社会だから」

「自分には何もできっこない」

そんな風潮をいつまでも続けていたら、間違いなく我々は「それまで何もしなかったことへの深く強い後悔と懺悔、そして罪悪感を自らに強いる」ことになる。だが、そうなってからでは遅いのだ。今、我々が自身の力で諸問題と向き合い、激動の時代を生き抜くしたたかさを身につけなければ、本当に手遅れになる。

 

これが危機感を煽る発言に受け取られることは間違いないだろう。文脈からしてそうとしか理解できないだろう。だが、私は煽ることを目的としてはいない。そこに意図を置いてなどいない。ではなぜ、このような発言をするのか?

 

3 ピンチはチャンスだからこそ、自らの「仮面」を外すとき

それは、「今この世界で起きていること、起きることから目を逸らさずに向き合う勇気を持ってもらうため」にある。人は本当に絶体絶命の事態に陥った時に極限の力を発揮する。その真価を見い出す勇気を奮い起こすことに、そして「自分の可能性を改めて知り、それを信じること」に最も重きを置いているのである。つまり、これを読む人たちに「可能性を知ってもらうため」に、あえてこの表現を使ったのである。

今こそ、我々は自ら取り繕った仮面を自らの力で外し、本当の可能性と真価を見出して目の前の事態と対峙しなければならないのだ。

 

ならば、我々は一体何に可能性という希望を見い出せばいいのか?

そのうちの一つに、まさにというべき「科学」がある。科学は人の内面を映し出したものであるとするならば、その両面がある以上肯定的で建設的な視点もまた考え方によって見いだせるはずである。科学を、現在においてはその代名詞ともとれるテクノロジーを、良い方向に使うのだ。それは発想次第でいくらでも導き出せるものであり、それに現在の社会がうまく適合できるような機能を有していれば、確実に今の社会に対する鬱積を払拭できるだろう。私にはその案がある。それが今は「一個人の妄想」と揶揄すらされる現状であるとしても、必ず私は実現させるつもりである。なぜなら、我々人類は激動を生き延びる必要があるからである。万能ではないにしてもその発想を社会に浸透させるための思考モデルも構築している。もちろん、実際に普及するための改良もこれから磨き上げていく。人々の希望をまだ名もないこの時点から分け与えていきたいのだ。

 

次に挙げられる可能性として「進化」がある。我々は今、知能や精神レベルを飛躍的に発達させる進化の時代を生きている。それは決してシリコンバレーの主張する「エクストロピー」や「トランスヒューマニズム」の類を話しているのではない。いくつかの見識者が述べているように、それは「監視資本主義」や「全体主義」、その後の世界へと向かうための思想に過ぎない。進化には必ず精神性の発達がついて回る。その意味で本当の進化とは「精神レベルや意識の発達」であると、私の場合は認識する。こう表現すると一部の分野、つまりスピリチュアルでいうところの「アセンション」や「次元上昇」を連想させることがあるかもしれない。確かにそれを主張する人たちには事態の極度な楽観視や短絡的な問題解決を意味する論調が多いことは事実である。だが、情報を発信する「人」ではなく「今実際に起こっていること」としての視点で捉えるとするなら、我々は間違いなくこれらを意味する時代を生きている。それは「意識グリッド」の視点から見ても、理解できることであり、これらを単に眉唾物として片づけることは、少なくとも私はするつもりもない。だが、「アセンションするから、何もしなくて大丈夫」という視点には決して陥るつもりすらもないことも、自身の信条に誓っている姿勢である。それはあくまで情報の一部としてとどめるに至り、「今本当にやるべき目の前の問題」を解決していくことに最大の重きを置いている。その努力を続けていった結果として、スピリチュアルでいうところの「宇宙の後押し」が働いて進化への道が開けるということに他ならない。私はスピリチュアル分野や陰謀論分野を知ってはいても、それだけに執着することはしない。その情報の言うことに耳を傾けることはする。だが、私はスピリチュアリストにも陰謀論者にも、ひいては御用学者のようなひもつきにも、机上の空論の主張者にも、どこかにあるあらゆる「~主義者」にすらも支持するつもりも毛頭ない。そういった「何かしらの分野への偏り」が派閥や誤解を生み、強いては要らぬ論戦に陥ったり、必要のない軋轢を生み出すことを知っているからである。よって私は現代におけるありとあらゆる全ての既存の考えに傾倒などしない。そのつもりすらもない。強いて言えば「独自性を持つ」ということだろうか。一つの明解さを教えるものとしてこの言葉を用いたが、結果的に私のやることは変わらない。それは、目の前にある問題に対峙し、本質的な視点をもってそれを解決することでひいては社会の変革あるいは変容を扶助できる一役となりえることであり、激動に対する人類存続のために決起することである。その実現のためを想うなら、命を落とすことさえも厭わない気概である。

 

そういった私の見地からしても、最終的に全人類共通で目指すべき一つの到達点がある。

それを三つ目の可能性として挙げるなら、それこそが「恒久的な平和の実現」であり、長きにわたって切望してきた我々の憧れの姿を他ならぬ我々自身が知るために実現することである。ただでさえ平和とは程遠い現代で途方もない人類の夢を、たった一人の、それも名もなき存在が今の時点でのたまう台詞ではないことは、分かる。決して叶うはずがないとされてきた、身を搾り取られるくらいの羨望さを抱き続けてきた全人類に対して、「そんなことできるわけがない」と世界中から軽蔑されることもなんとなく想像がつく。その意味では全人類への挑戦状に受け取られてもおかしくはない。

 

だが、一言言って、「ピンチはチャンス」である。そのピンチを私なりのやり方でチャンスに変えていくことがこの世に生まれた私自身の使命そのものである。

もちろん、現時点ではまるで説得性に欠けていることは承知している。なので、私自身に対する「決断の証明」として、現時点においては記録としてとどめておくことにする。ただ、私は「科学は科学者が見い出す人間性のあり方次第でいくらでも変わっていくものだ」ということを、形を変えつつ作品を通して幾度も強調していくつもりである。

そうした経緯を全て含め、今の私が、名もない私がなぜ、そして、どのような根拠をもってこのような発言をするのか、気になる方もおられるかもしれない。

 

今日ここの記事で述べたことには十分な裏打ちや立証的見識がないこと、つまり、説得性が見受けられないことは重々承知しており、表現の足りない部分も各箇所に見受けられるであろうこともまた理解している。

ではなぜ、このような発言をするのかと言えば、私には自身で描いた「世界の理想像」を実現させることに対する大義があるからである。そして、これらの危機をうまく逆手に取って、私自身が「守りたい」として大切にしているものを、真に守り抜き、幸せにしたいからである。その幸せをより多くの人達に波及、伝播させたいからである。

人には誰しも大切な人がいる。私もそのうちの一人にすぎない。だが、だからこそ、「守りたい」「幸せにしたい」という思いは、たとえこの身が粉々に砕け散ってでも最優先させる気持ちであり、幾多の激動からその人たちを守り抜くためにも自分が「立ち上がらなければならない」と強く痛感したからである。よって、このような大義を掲げるに至ったのである。つまり、その人たちを守るためには社会全体の再編と、あるいは人々への決起を必要とすることを一個人として感じたためである。そのために今、その大義を実現することを目標として今、作家という初期段階を目指しているのである。

 

我々はいくらでも、どこからでも、どこまでも立ち上がるだろう。

個々に感じる「大切なものたちに存在していて欲しいと願う痛感」、その想いが胸の中心に「真の心臓」として宿り続けるのであれば、我々は自身が想像すらもできなかった偉大さと誇りと、そして、圧倒的な力をもってこの世界を変えていくだろう。その世界の行く末に向かう道のりの中に、いかなる困難や苦難が立ちはだかろうとしても、我々はそれらをもっていくらでも打破していけるはずだ。なぜなら、「存続する疑いようのない理由」が我々にはいくらでも存在するからだ。地球生命、その生態系、自然からの癒し、そして、文明の発展と個々が大切にしている人たち、恋人、両親、兄弟、親戚、友達、仕事仲間、親切にしてくれる見知らぬ人、何よりも「人を大切にする気持ちそのもの」、我々には圧倒的なバックボーンがどこにでも、いくらでもあるのだ。それらを胸に刻み続けていくことで得られるものは必ず、存在する。それがどのような形であれ、宇宙の片隅に位置するこの星に生まれてきた意味を理解するタイミングと重なる時が来るとするなら、我々が我々であること、人間であること、地球を代表する人類という生命であること、そして、この命が存在することの、揺るぎない答えを自ら見い出すことと同義になるだろう。だからこそ、目の前にあることを、成し遂げるのだ。私のみならず、「できる」と感じることを一つだけでも見つけ、実行し、完遂させていこう。

大丈夫、すべては「プロセス」なのだから。