世界構想圏 ~森本純輝の社会思索ラボ~

「個の内包的全体性」から模索する社会理想像のアプローチ

当ブログの方向性と時代の混迷の先に描くもの

更新がだいぶ間を空けてしまい、大変ご不憫をおかけした。

現在書き溜めている記事はだいたい11記事くらいにまで達しており、ぼちぼち投稿していってもいいのではないかと思える数に到達している。

それでも、記事の更新にまでなかなか至らない明確な理由というのは実は存在せず、単に「しようしよう」と思って書き溜めているだけ、というのが実情である。

故に、そろそろ実行に踏み切る必要に駆られるかと思うだが、その前にそもそもの大前提として、なぜこのブログを更新するのか、その背景はどのようなものなのか、そういったことを、前回紹介した「このブログの目的とするところ」に付随する形で、改めて発信してみようと思う。

 

コロナが収束する展望が見えかけているのか、それを明確に断言することはできないが、現在新たな危機として浮上している食糧危機に加えて、預金封鎖や世界的な経済破綻、第三次世界大戦など、もっと大きな脅威が雪崩のように押し寄せてくるのは、今の私の見地から見てみても、それは疑いようのないほどに明白である。ただでさえ疲弊しきった現代に、上乗せされるようにして次々と危機が起きるのは、ナオミ・クラインが言うところの「惨事便乗型資本主義」の台頭と深い繋がりがあるような気がしてならない。それがたとえ陰謀論に位置づけられている「世界政府による市民の超管理社会の到来」―実際上、世界政府の発布は既に公になされている―にしても、これから今まで儚くも平穏だった日常があっという間に崩壊していく世界にたちどころに変貌するであろうことは、様々な学者や見識者の視点から見ても明確にうかがえる通りである。

 

そんな危機の山積する現代において、我々はどのような展望を見い出し、どのような道を歩んでいけばいいのか、まさに迷走していることもまた明白な事実である。ところどころに新しい視点に基づいた「旗振り役」が世界を牽引しようと奮起している事柄はあっても、その背中を本当に信頼して追っていくような気配が人々の中にあるのかどうかと問われれば、それもまた完全には断言できない状況がある。それが新秩序に基づく動きだとしても、例えばSDGsが掲げるような「誰一人取り残さない社会に」というスローガンの標榜が圧倒的に明確で真に確実な航路を指し示すようには思えない。なぜなら、それが陰謀論で意味するところの「権力の超一極集中型社会の到来」であることを陰謀論の視野であってもなくても、その裏に気づいているがゆえに、実際の現実に「この地球に住む全ての人々」が一丸となって取り組める目標として確立されることはほぼ不可能であることは明白であること、そして、その「権力一極集中」の先に見えてくるような新たな展望を描くような先導者の存在が皆無であることなどが起因するように感じられるからである。つまり、情報錯乱が一過性を増していくこの時代において、「今ある現実」だけに目を奪われてしまい、その先に描くべき発展的で建設的なビジョンがなかなか具現化させることができない人々で世界が覆われているから、ということである。

「情報の正誤」にこだわるということは、「それこそが万象の絶対的な答え」であるかのように人々の感情を固定化させてしまう、いわば「ポスト真実」といった事態に陥ってしまうことでもあり、それはかの著名な見識者であるマルクス・ガブリエル氏が陰謀論の決定的な論拠の欠如の意味で述べているように、それは対立や分断を著しく助長することになり兼ねない現実を生み出してしまう。

私は前回にもお話したように陰謀論に位置づけられる大抵の情報のことは受け入れているし、その反対の立場や視点を取る人々の心情もおおむね受け入れてはいる。ただ、ここでどちらの立場にいる者なのか、と問われた時、そもそもにおいてその問い自体が不毛である、と答えるしかない。私は情報自体に感情移入することで誰かを攻撃したり、非難するような立場を取る存在には決してならない。いかに一つ一つの情報に正当性や明確な論拠、あるいはそれに基づく証拠があったとしても、それを主張したところで反対する人がいるのは明白だし、それは建設的な対話や発展をまるで生みもしないことに気づいているからである。本当に強いて言及するならば、陰謀論の情報を知ってはいるけれども、それを不合理に強要したりはせず、あえてその反対の立場や見解を持つ人たちの心情を鑑みて発言をするように常々気を付けている次第である。

とはいえ、どうしても危機に直面する事態が近いうちに訪れることを考えれば、どのみち耳を傾けてくれる人たちに警告を発したり、注意喚起したい思いがあるのは否めない事実ではある。それを持ってしてもそれでも理解が難しければ、それはそれでその人に不幸が降りかからないように最善を祈ることだけである。

 

そうは言っても、結局何かを変えなければ変わるものも変わらない。日本の滅亡と世界の崩壊が目前に見えているのなら、何かをしなければならない。それが蓋然的な行動の帰結でもある。よって、「自分には何ができるのか?」を考えた時に、私が一番始めにできることは「未来のビジョンを鮮明に描いて、それを広く伝播させること」だと気づいた。前回も述べた通り、私にはほぼ永久的に継続可能な「世界の調和」を―テクノロジーが主軸にはなってしまうが―明確なビジョンとして描いている。小説という分野を生業にしようと決めたのも、そのような背景があるからだ(単に「作家になりたい」という夢から始まったのは事実ではあるが)。

 

以上の見地を踏まえて、私は―そんな自分もまた「旗振り役」の一人として認識されてしまうことは避けられないものの―自身が描く恒久的な平和の実現へのビジョンを小説、あるいはこのブログを通して広めていく予定である。その具体的なビジョン、それを「SFプロトタイピング」とでも呼ぶような見解については日を追って明らかにしていこうと思う。陰謀論でいうところの「彼ら」に先を読まれては困るからだ。然るべきタイミングで、だが、トップダウンボトムアップの両方をうまく使いこなしながら答えを安易に出すことなく「社会のあるべき最善の姿」の完成を目指して、このブログを更新していければと思う次第だ。

 

このような大きな目標を掲げる私のブログを読んで下さる方がいるだけで、個人的には有り難く思う所存である。その目標がどこまで功を奏するかはわからないが、自身の描く終着点を目指して邁進していこうと思う。

 

 

 

改めて、このブログで目的とする到達点

前にも書いたかもしれないが、ブログ開設の初期段階からすでに訪れて下さる方々がいることに、大変感謝している。この記事ではこれまでのブログ投稿内容の主旨に付け加えて、新たに2つのテーマを付加させて頂いた。これまでの記事の内容からしてその一貫性を持たせるために改めて改良した次第である。

以下に、「ブログについて」の内容を紹介させて頂く。

 

 

このブログの3つのテーマ


①新たな社会構築における着想:
「思想」「テクノロジー」「社会システム」の三つを基軸にして、そこに科学の視点も交えつつ、これからの新たな世界構築を模索する。科学の他に哲学や社会工学情報工学など、他分野に対する見解も述べる。参考文献に対する見解についても言及していく。

 

現代社会の問題点の表出化:
社会におけるあらゆる諸問題の原因あるいは真因を自身の視点で展開し、その根本的な解決に向けた行動を付随する私見を述べる。その動きを促進するための具体的な手段も提示する。

 

③気候変動における検証と適応:
気候変動の代名詞ともされている地球温暖化にまつわる実際のデータや政策などをあらゆる方面から検証し、またそれらに対して懐疑論に位置づけられているCO₂原因説の虚偽や、果ては地球寒冷化といった見解に至るまで、これから本当に来る可能性がある気候変動に際しての予測とその適応策を、個人的な見解で模索していく。

 

現在は、「二酸化炭素の役割の定量的な評価」や「政権に同調的なマスメディアの構造」など、計5記事を執筆中である。随時更新していく予定である。

 

「ブログについて」にも似たようなことを書いているが、私は「地球寒冷化」というテーマに最も強い関心と危機感を抱いており、その変動予測と適応策に最も時間を割きたいという願望がある。その他にもいくつもの関心事があり、今後にわたって自見を展開できればと思う次第である。

いくつもの社会問題が少しでも改善できるよう、個人的な立場にはなるが何かしらの一助になれば幸いである。

 

今後ともご愛顧のほどをお願いしたく思う。

 

3 地球はもう温暖化していない

まだ始めて間もないブログであるのに、早速というべきなのか読者が訪れてきてくれているという結果がある。大変有難く思う次第である。これからも私の活動を見守っていただけると幸いである。

呟きに関する(やや論考的な)記事を二つ公開したので、今回は思索における参考文献をもとにした私見を展開してみようと思う。

 

表題はタイトルにもある通り「地球温暖化」に関する話である。この名の通り温暖化を叫ぶ類のものではなく、世間一般に「懐疑的」と認識されている立場を貫く本の主張やデータに基づいた発言である。

実はその本はこのタイトルそのものであり、この文献における内容だけが「温暖化はしていない」という正当性を主張するような論旨を貫徹しているわけではなく、この他にも幾多の書籍やそれらを書いた見識者たちとも相まっている。故にこの本だけに傾倒した意見を述べるということはない。それらは、私が生まれた90年代頃からすでに指摘されてきた事柄である。

 

1 気候変動における世界の認識

現在、日本における温暖化を否定する学者の代表格は丸山茂徳で、温暖化とは真逆の地球寒冷化を訴えている方である。この方のみならず、気候変動における学問の世界的権威とされるスティーブン・E・クーニンという学者もまた、寒冷化という立場こそ取らないものの温暖化は急進的なものではない、と「気候変動の真実」という書籍の中で主張している。

本書の著者は深井有という理学博士であり、金属物理学を専攻としている。彼は丸山茂徳を知っており、彼と意見を同一にしている学者で、彼を抜きにしても、科学者の9割は地球温暖化CO₂犯人説が虚実であることを知っているとされ、実際そのタイトルの本もある。

 

先ほども言述した通り、これらの見解は世間一般から見て「懐疑派」としてのレッテルを貼られている立場であり、その中の主たる主張である二酸化炭素による温室効果ガスが原因ではないという見解は得てして弾圧にも近い排除をされている者たちである。

だが、そういった先入観を「まずは」止めて彼らの主張を聞いてみると、そこには懐疑派というには決して値しない、気温データにおける温度上昇の頭打ちや、それを改竄した疑い、そして温暖化を脱炭素化に向けたビジネスとしての既得権益の横行が散見されている、といった指摘がなされており、その中には明らかに虚実を繕った事件が起きたという事例もある。

 

それは「クライメートゲート事件」と呼ばれるものであり、これはデータ操作や批判封じなどが記載された電子メールの記録が流出した事件のことである。

以下に本書にある訳注を引用する。

 

クライメートゲート事件

IPCC報告書作りに重要な役割を果たしている英国イーストアングリア大学気候研究所から大量の電子メール記録が流出して、CO₂による温暖化を印象づけるためのデータ操作や批判封じなど科学者としてあるまじき行為の数々が明るみに出た事件。(2009年での出来事)

 

この流れを受けて、オーストラリアでは2013年に気候変動・エネルギー省が廃止され、2014年7月にはCO₂排出削減を目的として課されていた炭素税が廃止された。英国でも2014年に国内の気候変動関係の組織が大幅に整理され、関連予算が41%カットされた。2015年3月にはスイスで付加価値税に代えて炭素税を導入するという案が国民投票にかけられ、92対8という大差で否決された。

ひとまずはという形で温暖化における世界情勢の実情を伺ってみると、すでに気候変動人為要因説は破綻しているとされている。実際に、2007年2008年に行われたギャラップ調査と2013年に行われたピュー研究所の世論調査には、「気候変動は人為的要因によるものか」「気候変動を脅威と考えるか」という設問にイエスと答えた人の割合は最近5年間に先進国で大きく減っており、中でも米国の数字は24%まで下がっている結果も見受けられる。

だが、これだけでは温暖化は嘘であることへの実際の十分な証拠や根拠にはまだ至っていないと個人的に解釈するので、次に明確な根拠となりえるであろう最近の160年間の気温とCO₂濃度の変化について述べてみよう。

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上記のグラフは最近160年間の気温とCO₂濃度の変化を比較したものになる。CO₂が単調に増え続けているのに対して、気温は全体として右肩上がりにはなっているものの単調に増加しているわけではない。160年のうちで気温が上昇しているのは1900年~1940年と1970年~2000年の間だけであって、1900年以前と1940年~1970年は若干下がり気味、2000年以降はほぼ平らになっている。IPCCはこの全体としての気温上昇をCO₂増加によるものとみなし、気温が上昇していない期間に関してはエアロゾル(大気中を覆う微粒子)の影響などを考慮することで辻褄を合わせようとした。

 

 

 

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そして、上記のグラフは南極大陸のヴォストークコアから得られた35万年前からの気温とCO₂濃度の比較のものである。ほとんど同じ形で変動を繰り返しているが、よく見るとCO₂の方が立ちあがりが少し遅れて、しかも尾を引いていることがわかる。

 

(「30歳未経験からにITエンジニア」というサイトに記載してあった本書の図を参照したもの)

 

1979年~2014年の地球平均気温の変化

 

 

2 なぜ、人々は特定の情報だけを信じたがるのか

今日は前回に引き続き、この記事についても一個人の呟きとして投稿することを目的としたものになる。よって、半分流し読み感覚で一読いただけると幸いである。

 

1 コロナ禍で浮き彫りになった、情報の確執化

今、世界は新型コロナウイルスの蔓延によって経済や社会が激しい打撃を受け、著しい混乱の一途を辿っている。その多大なる影響によって、社会経済だけでなく人々の心や精神をも深く疲弊させ、鬱積をより顕在化させた表れとして我々を蝕み続けている。それは完全に明白であり、暗いベールが席巻する現代において、ますますその拍車をかけることになった引き金と言えるかもしれない。

 

だが、その一方で「コロナは存在しない」「ワクチンは百害あって一利なし」という見解あるいはその情報に基づく一部の人たちによる主張もまた顕在化しており、「反ワクチン」や「全体主義の下準備としての生物兵器の利用」といった見解で、世間の人たちに警鐘を鳴らしている。それらは絶大な権力を持った一部の資本家たちによってもたらされた、人口削減計画と世界政府による全人類の完全支配への布石という見地に端を発するものである。

その上で、昨今の人々はこれを「根拠のない煽り」や「確実性のない陰謀論」として一蹴し、耳を傾けることをせずに大手メディアが報じる「コロナの危険性」という主張を受け入れている。

 

しかし、人々を見る限り、それはあたかも「コロナが存在するという情報こそが正義」であると見受けられるような態度を取る発言もところどころに見受けられる。その証拠として、そういった主張をする人々に圧力をかけたり、激しい非難を浴びせるといった行為も散見する。それは「コロナを心配するというよりも、コロナは危険であるという意見に収斂させようとする、一種の、いや、ほぼ確実な同調圧力」としての機能をはらんでいるように受け取れなくもない。

 

その現実を鑑みた場合、大多数の人々は「本当にコロナの危険性を憂慮しているのか」という疑問を浮上せずにはいられなくなってくる。なぜなら「コロナの危険性を信じること」と「コロナの危険性を押し付けること」は話の焦点が違うからである。どちらかというと、「主張を強要すること」に比重が傾いてしまっており、その根底には「危険性に対する思考の咀嚼」は存在していないように思えるのだ。その「思考を咀嚼することの希薄さ」は、メディアが主張しているから「だからお前もそれを受け入れろ」といった、話の主旨の入れ違いを正当化するものであり、それらの情報に対して理性的な思考をもって「まずは一旦その主張をすること自体をやめる」という結論に辿り着かないことを実現させてしまう。そして、それは今も根強く残る、同調性をよしとする日本人の精神構造をいつのころからかそれを同調圧力として変質させたことの表れとしての、民族的なイデオロギーがその意見を抹殺している姿とも受け取れてしまうのである。

そういったお互いの「自明の理」が互いに衝突し合い、それがこのコロナ禍により一層混乱の拍車をかけているということだ。

 

そういった視点から物事を見た場合、ある一つの大きな疑問に集約されてくる。

それがこの記事のタイトルである「なぜ、人々は特定の情報だけを信じたがるのか?」という問いである。それが、情報の真偽を自分自身の力で確かめ、最終的な決断を下すという行為を入れ込むことを決して寄せ付けない一つの先入観として顕在化していることになる。それはコロナ茶番説を信じる人たちの主張を正当化する、という意味のみをはらむものではなく、そういった人たちをも含めて、情報の真偽の可否に関わらず、「互いの意見の押し付け」、つまり感情的になって貫徹させようとする「情報の確執化」が情報の真偽を確証させていくステップを踏むことを著しく困難にさせている一つの要因になっているという意味に基づくものである。

 

2 世界にとっての「自明の理」

では、ここでところ変わって世界は今どうなっているのか?

今、韓国はマスクの着用を解禁する方向に進んでおり、その傾向に先立って世界ではマスクを外す国々が増えている。その中にはこの国で陰謀論者に位置づけられている人たちの主張と同じような立場を取った人たちが市民レベルで決起し、全体主義への対抗という形で大規模なデモを掲げている。実際、その方向へと向かわせようとする政府の政策をそのようなデモによって否決を余儀なくされた国もある。また、最近のアメリカのマスメディアの見出しには「我々は騙されていた」というタイトルが載るほどである。

今まで「陰謀論」として片付けられていた情報が、今や世界ではそれが当たり前になっているのだ。

そのような見地をもってしてもなお、ここ日本国内で「反ワクチンは陰謀論だ」と一蹴する立場を取ることが果たして賢明なのか、とここでも疑問に思わずにはいられないのだ。日本でも感染症にあまり有用ではないとされるマスクの着用や、その脳細胞への悪影響への指摘、ワクチンの有効性を疑問視する見識者や、そもそもにおけるコロナウイルスが存在することへのエビデンスに関する書類提出、果てはワクチン接種後の感染者の増大に至るまで、国内でもコロナやワクチンに対する疑いの主張がところどころで見受けられる以上、果たしてメディアが標榜する「コロナは危険」「ワクチンは安全」という話に信憑性があるのだろうか?

そのような視点に立ってみた場合、「単に情報を信じること」よりも「全体的な流れから数々の証拠や客観的事実を考慮した上で、総合的に見てそれらは虚偽であるのかもしれない」という結論に至ることが、今の日本人には必要なのではないのか、と思わずにはいられないのだ。

 

3 日本人の社会的精神構造がもたらした感情の画一化

ではなぜ、それでも日本人は「変わらない」のだろうか?

諸説あるとは思うが、そのうちの一つに「思考を深化させない」、つまり「物事を掘り下げて考える」ことが元々日本人には難しいとされるものがある。それは、「感情を優先させるのではなく、理性的になって物事を論理的に考えること」の困難さを意味するものでもあり、その心理背景には「右にならえ」のごとく世襲的な思考の画一化が個々の感情の同質化を与え、それが論理的な思考を阻んでしまっている、と個人的に解釈するのである。それによって、世間的に浸透している現象と日本人特有のそういった心理背景の形成が見事と言えるほどに同じ位置に収まってしまったがために、考えることをやめてしまっていると見受けられる。もっと簡潔に換言すると、コロナ禍という大きな規模での出来事が日本人独特の「同じように考える思考パターン」に非常にうまい具合に溶け込む、つまりその思考パターンが機能するような全体性をコロナという情勢自体が受け持っているが故に思考が止まってしまっているということである。もっと言うと、コロナが全体性をはらんだ問題であるが故に、そういった意味で民族規模での「認知バイアス」がかかっているのである。元々オカルトや陰謀論といった類の話に一度きりでも位置づけられてしまった情報は、全て完全に眉唾物として片付けられる、といった風習があり、それがどんなに信憑性や確実性に基づく情報だとしても、そういった分野に配属されてしまえば、二度と耳を傾けることをしなくなる、という性質が以前から日本人にあるが故だと解釈するのである。

その意味において、我々は一つの、一般の定義とはまた違った「情報格差」を経験しているようにも思える。その見えない格差が現在の時代に大きな軋轢を生み出しているのではないのか。そう思えて仕方がないのである。

 

そして、それは何もこのコロナ禍に限った話ではない。その事例の一つにシリコンバレーの展開する未来像、特に人工知能が世界を変えていく、といった世界観に対して、デジタル社会への危険性や現代文明適応への脆弱性が指摘されているにも関わらず、これらの警鐘に耳を傾けることをせず、その理想に酔いしれることをよしとする共通認識が日本人に広く根付いている、という現実も存在する。機械学習の情報提供におけるブラックボックス化や市民情報の独占と悪用も叫ばれている中、それらの警鐘は至極的を得た見解であり、それこそがこの事例一つとっても「自明の理」であるようにも受け取れるのである。

 

だが、こういった見解はしばしば「悲観論」や「歴史修正主義」といった分野に押し込められやすく、その主張に正当性があるのかどうかすらも検証される余地を与えられることがないのが現状である。あたかも世間一般に広まっている情報や認識こそが「自明の理」とでも言わんばかりに、その同調圧力をもはや権力のような形で利用し、反対の立場を取る人々を強制的に蹂躙している。それは、情報を流す主要媒体となっているマスメディアの言うことをそのまま受け入れ、その信頼性における依存から、主張を正当化することを強く擁護していることとも、相容れている。

 

4 我々はどうやって歩み寄っていくべきなのか、その答えを探すために

一つの視点をそこまで掘り下げてみた場合、最終的に考えずにはいられない論点に行き着く。我々はどうすればこの衝突を解消して、事態の建設的な発展を目指していけるのだろうか。そのような疑問に直面するのである。

そういった次なるステップへと踏むことを決めた場合、視点の違いという考えをどうしても含まずにはいられない。なぜなら、視点の違いが今の軋轢を生み出しているのであり、その両者の視点をどちらとも鑑みることをせずに互いに歩み寄っていくことは難しいからである。むしろ、私は、この「視点の違い」、そして「異なる世界で生きている」という見地にこそ、人々を一致団結させるための何らかのヒントが隠されているような気がしてならない。それはある種の直感のような感覚でしかない。だが、全く何の手がかりもつかめない以上、それが一つの指標として存在しているということは、それを応用する価値があるのかもしれない、ということであり、たとえどのような正誤があれど、まずはそれをもって検証していく、という姿勢にこそ重きを置くべき態度であると、そう認識している。よって、取り組んでみる価値はあるのかもしれないと個人的に解釈するのだ。それは非常に難関な道のりであり、決して生易しいものではない。だが、事態がその必要性を訴えている以上、挑まないわけにはいかない。

 

だからこそこのブログが存在するのであり、その新たに生み出された発見を社会に何らかの形で適応することができるとするならば、それこそは社会貢献の一つであると願ってやまないのである。

そういった意味で今できることは、私一人の努力から見るならば、今している専門書籍をよく読み込むことだったり、そこから得た着想を深化させていくことだったりするのかもしれない。だが、このような大きな課題は人一人で成し遂げられるほど容易なものでもないこともまた確かだ。今いる大勢の人たちが解決と発展のために視点の違いを乗り越えて事態の収束を試みる努力もまた、必要であるかもしれないと考える次第である。

これが意味することは、「同じ志を持った仲間を増やす」ということではないのか、と考える方もおられるかもしれない。実際そうではある。この問題に対する呼びかけといった形に呼応した人たちが何らかの形で決起し、共に社会の発展と貢献に根差した活動を継続していければ、私とてこれほど嬉しいことはない。だが、そういった意味ではなくても、個々人でできることがあると思う。情報収集だったり、社会に関する考えを深めてみたり、できることはたくさんあるはずだ。そういった個々の努力が何らかの形で結束することを可能にした場合、この日本社会だけでなく世界全体に対しても貢献できるだろうと見ている。それができたのであれば、世界は煌めきを再び発揮して次の世代へ大いなる可能性と希望を与えてくれる強大な一助となりえるのかもしれない。

 

はじめに

ここは作家を志望する一個人における、新たな社会構築のための考察としての場になる。

現在小説において、私が計画しているジャンルは、

「SF」

「ファンタジー

「恋愛」

「社会」

「現代」

「ビジネス」

の6つとなる。

これらの全てとは言わないまでも、大方の作品においては、現代の様々な問題を実際に解決し建設的な発展へと向かう一助とすること、その考えを述べることを主な狙いとしている。

それは、これからますます社会的大変動と激動が訪れるであろうとされている現代において、一体全体我々人類はどのような方向へ向かって、どのような手段を使い、どのようなプロセスを踏んでいくことが必要不可欠なのか、あるいは向かうべき道に相応しいと判断するに値する選択肢なのか、一個人で「一つの答え」を提示し、それを現代社会に適応させて文明の発展と向上に貢献することもまた意味している。

 

その意味で、私の活動は作家だけにとどまることはないであろうと思う。あくまで社会を変えていく活動の初期段階という形での動きになるはずだ。

 

ご関心のある方は一度覗いて欲しく思う。

 

1 科学は決して悪のツールではなく「可能性」である

はじめに

この記事はある意味、私の決起としての宣言のようなものであると思う。一個人の呟きとして一読頂ければ幸いである。

 

1科学、そして現代社会は人の心や人間性を映し出した鏡そのものである

今現在において、何か特別な見識を得たわけではないが、ある映画の登場人物が述べる発言に関してかなり共感することがある。「アイアンマン3」での終幕あたりで主人公トニー・スタークが述べる科学の可能性についてである。

 

台詞をそっくりそのまま載せるにはもう一度この映画を観る必要があるが、それを抜きにするなら、おおむね以下の内容に要約されるはずだ。

彼が言うには、本来科学というものは文明の発展のために貢献する手段であり、その可能性に決して恣意的な意志ははじめから存在はしないはずである。だが、科学の代名詞である学者たちがいつのころからか道を踏み間違え、よこしまな意志を持つようになったりして、やがて科学が悪の権化として扱われるようになってしまう。だが、科学を使う人そのものに問題があるのであって、科学そのものは決して悪ではない。そのことを劇中で伝えていたのだ。

単に人の心理と片づけることもできる。また、全く違う視点で人は社会上のシステムに弱いという見方で一蹴することもできる。だが、この主旨をはらむ内容は科学、ひいては現代社会においても核心をついているような気がしてならない。

 

確かに現代のテクノロジーや科学知識は、目を見張る加速的な発展性が見受けられる一方で、世界の人々の情報を管理するために人工知能を利用し、ひいては個人情報を資産にして企業の利益を得たり、機械を軍事ロボットとして兵器に投入したりといった、どの側面から見てどう捉えても文明が栄えるような発展に貢献するものとは程遠い知らせばかりで、人類や地球の未来を奪うような不安定さが人々の希望を奪うのは無理もない話である。それだけ人の心は荒廃しきっている象徴であるともいえるだろう。

 

だが、人類には自らの種を存続させる権利と自己に対する責務がある。人間こそが自然界で最上位の地位を獲得した以上、自分たちの問題を自らの力で解決し、その上で破壊されてしまった地球生命の生態系を元の循環に戻す責務もある。他の生命と比較して高度な知能を得たということは、それを制御するための責任もまた生じるということであり、自然界の不和を描き始めたのも、自分たち自身である、という結末をちゃんと直視できるだけの勇気が必要である。もちろん再生可能エネルギーの普及を標榜する昨今の環境原理主義的な立場を取る活動家や、地球温暖化という観点からでの急進的な目覚めを訴求するつもりもない。それらは全て利益や既得権益に根差したエゴそのものであり、真に地球の生態系を考慮しての主張では決してないことは、幾多の書籍で指摘されており、その信憑性に無名の私が強調するまでもない。

 

だが、人類を構成している一個人として感じることは、科学を利用した独善的思考の成れの果てこそが今の現代文明の姿を映し出しているということであり、その「自分だけ」「カネだけ」「今だけ」の発想が人類文明を数世紀かけて自然界から切り離していった要因の一つであるということは、学識素人の私でも想像はつく。それがたとえ陰謀論でいうところの一部の資本家たちによる誘導や巧妙な仕組みが決定的な主因だという主張が存在するにしても、それだけが全てではない気もするのだ。

我々は、自分たちの心、もっと厳密に言及するなら自分たちの内面的構造の脆弱さに抗いきることを実現できなかったのだと、そう感じるのだ。その意味での「心の弱さ」が外部からの様々な誘惑に時間をかけて次第に突き崩されていき、それらに負けて自分たちの本来あるべき姿への追及を諦め、そして、静かに圧力や抑制をかける組織化された社会に参加してしまったがゆえに、自分自身で表面的な仮面を被り続けること、そしてその虚像の姿に転換することに居直ってしまったのだと思う。それが現在の資本主義であったり、社会システムそのものにある構造上の問題であったり、といった表出化された現象として露呈していることが現実の一つである。

もちろん、人は皆誰でも強いようにはできていない。そもそもにおいて、今の社会自体に自分たちが参加し続けなければ生存することができない構造で作られていることはもはや疑いようがない。それが結果的に我々に自身の弱さに対峙することから強引にでも乖離させてしまったことは、決して偶然ではない。よって強靭な内面の構築を諦めてしまったことはある意味仕方のないことではある。人の心理という視点から科学の腐敗を指摘するのもこのような背景から述べているものである。

 

2 我々はこれから巨大な激動に直面する

しかし、様々な方面から囁かれているように、これから人類史上これまでの苦難をはるかに凌駕する激動がいくつも迫りくることになる。それは今日叫ばれている食糧危機であったり、預金封鎖や世界的な金融危機第三次世界大戦といった人類文明側からだけではなく、気候変動や磁極反転、太陽フレアの襲来など、地球環境面からの脅威も幾度となく到来することになる。俗世的な類の意味ではない本物の世界の終末、あるいはそれに該当するような大艱難の時代が待ち受けているのだ。これから我々は存続の危機にたくさん直面することになるのだ。

「どうせ自分なんて」

「そういう社会だから」

「自分には何もできっこない」

そんな風潮をいつまでも続けていたら、間違いなく我々は「それまで何もしなかったことへの深く強い後悔と懺悔、そして罪悪感を自らに強いる」ことになる。だが、そうなってからでは遅いのだ。今、我々が自身の力で諸問題と向き合い、激動の時代を生き抜くしたたかさを身につけなければ、本当に手遅れになる。

 

これが危機感を煽る発言に受け取られることは間違いないだろう。文脈からしてそうとしか理解できないだろう。だが、私は煽ることを目的としてはいない。そこに意図を置いてなどいない。ではなぜ、このような発言をするのか?

 

3 ピンチはチャンスだからこそ、自らの「仮面」を外すとき

それは、「今この世界で起きていること、起きることから目を逸らさずに向き合う勇気を持ってもらうため」にある。人は本当に絶体絶命の事態に陥った時に極限の力を発揮する。その真価を見い出す勇気を奮い起こすことに、そして「自分の可能性を改めて知り、それを信じること」に最も重きを置いているのである。つまり、これを読む人たちに「可能性を知ってもらうため」に、あえてこの表現を使ったのである。

今こそ、我々は自ら取り繕った仮面を自らの力で外し、本当の可能性と真価を見出して目の前の事態と対峙しなければならないのだ。

 

ならば、我々は一体何に可能性という希望を見い出せばいいのか?

そのうちの一つに、まさにというべき「科学」がある。科学は人の内面を映し出したものであるとするならば、その両面がある以上肯定的で建設的な視点もまた考え方によって見いだせるはずである。科学を、現在においてはその代名詞ともとれるテクノロジーを、良い方向に使うのだ。それは発想次第でいくらでも導き出せるものであり、それに現在の社会がうまく適合できるような機能を有していれば、確実に今の社会に対する鬱積を払拭できるだろう。私にはその案がある。それが今は「一個人の妄想」と揶揄すらされる現状であるとしても、必ず私は実現させるつもりである。なぜなら、我々人類は激動を生き延びる必要があるからである。万能ではないにしてもその発想を社会に浸透させるための思考モデルも構築している。もちろん、実際に普及するための改良もこれから磨き上げていく。人々の希望をまだ名もないこの時点から分け与えていきたいのだ。

 

次に挙げられる可能性として「進化」がある。我々は今、知能や精神レベルを飛躍的に発達させる進化の時代を生きている。それは決してシリコンバレーの主張する「エクストロピー」や「トランスヒューマニズム」の類を話しているのではない。いくつかの見識者が述べているように、それは「監視資本主義」や「全体主義」、その後の世界へと向かうための思想に過ぎない。進化には必ず精神性の発達がついて回る。その意味で本当の進化とは「精神レベルや意識の発達」であると、私の場合は認識する。こう表現すると一部の分野、つまりスピリチュアルでいうところの「アセンション」や「次元上昇」を連想させることがあるかもしれない。確かにそれを主張する人たちには事態の極度な楽観視や短絡的な問題解決を意味する論調が多いことは事実である。だが、情報を発信する「人」ではなく「今実際に起こっていること」としての視点で捉えるとするなら、我々は間違いなくこれらを意味する時代を生きている。それは「意識グリッド」の視点から見ても、理解できることであり、これらを単に眉唾物として片づけることは、少なくとも私はするつもりもない。だが、「アセンションするから、何もしなくて大丈夫」という視点には決して陥るつもりすらもないことも、自身の信条に誓っている姿勢である。それはあくまで情報の一部としてとどめるに至り、「今本当にやるべき目の前の問題」を解決していくことに最大の重きを置いている。その努力を続けていった結果として、スピリチュアルでいうところの「宇宙の後押し」が働いて進化への道が開けるということに他ならない。私はスピリチュアル分野や陰謀論分野を知ってはいても、それだけに執着することはしない。その情報の言うことに耳を傾けることはする。だが、私はスピリチュアリストにも陰謀論者にも、ひいては御用学者のようなひもつきにも、机上の空論の主張者にも、どこかにあるあらゆる「~主義者」にすらも支持するつもりも毛頭ない。そういった「何かしらの分野への偏り」が派閥や誤解を生み、強いては要らぬ論戦に陥ったり、必要のない軋轢を生み出すことを知っているからである。よって私は現代におけるありとあらゆる全ての既存の考えに傾倒などしない。そのつもりすらもない。強いて言えば「独自性を持つ」ということだろうか。一つの明解さを教えるものとしてこの言葉を用いたが、結果的に私のやることは変わらない。それは、目の前にある問題に対峙し、本質的な視点をもってそれを解決することでひいては社会の変革あるいは変容を扶助できる一役となりえることであり、激動に対する人類存続のために決起することである。その実現のためを想うなら、命を落とすことさえも厭わない気概である。

 

そういった私の見地からしても、最終的に全人類共通で目指すべき一つの到達点がある。

それを三つ目の可能性として挙げるなら、それこそが「恒久的な平和の実現」であり、長きにわたって切望してきた我々の憧れの姿を他ならぬ我々自身が知るために実現することである。ただでさえ平和とは程遠い現代で途方もない人類の夢を、たった一人の、それも名もなき存在が今の時点でのたまう台詞ではないことは、分かる。決して叶うはずがないとされてきた、身を搾り取られるくらいの羨望さを抱き続けてきた全人類に対して、「そんなことできるわけがない」と世界中から軽蔑されることもなんとなく想像がつく。その意味では全人類への挑戦状に受け取られてもおかしくはない。

 

だが、一言言って、「ピンチはチャンス」である。そのピンチを私なりのやり方でチャンスに変えていくことがこの世に生まれた私自身の使命そのものである。

もちろん、現時点ではまるで説得性に欠けていることは承知している。なので、私自身に対する「決断の証明」として、現時点においては記録としてとどめておくことにする。ただ、私は「科学は科学者が見い出す人間性のあり方次第でいくらでも変わっていくものだ」ということを、形を変えつつ作品を通して幾度も強調していくつもりである。

そうした経緯を全て含め、今の私が、名もない私がなぜ、そして、どのような根拠をもってこのような発言をするのか、気になる方もおられるかもしれない。

 

今日ここの記事で述べたことには十分な裏打ちや立証的見識がないこと、つまり、説得性が見受けられないことは重々承知しており、表現の足りない部分も各箇所に見受けられるであろうこともまた理解している。

ではなぜ、このような発言をするのかと言えば、私には自身で描いた「世界の理想像」を実現させることに対する大義があるからである。そして、これらの危機をうまく逆手に取って、私自身が「守りたい」として大切にしているものを、真に守り抜き、幸せにしたいからである。その幸せをより多くの人達に波及、伝播させたいからである。

人には誰しも大切な人がいる。私もそのうちの一人にすぎない。だが、だからこそ、「守りたい」「幸せにしたい」という思いは、たとえこの身が粉々に砕け散ってでも最優先させる気持ちであり、幾多の激動からその人たちを守り抜くためにも自分が「立ち上がらなければならない」と強く痛感したからである。よって、このような大義を掲げるに至ったのである。つまり、その人たちを守るためには社会全体の再編と、あるいは人々への決起を必要とすることを一個人として感じたためである。そのために今、その大義を実現することを目標として今、作家という初期段階を目指しているのである。

 

我々はいくらでも、どこからでも、どこまでも立ち上がるだろう。

個々に感じる「大切なものたちに存在していて欲しいと願う痛感」、その想いが胸の中心に「真の心臓」として宿り続けるのであれば、我々は自身が想像すらもできなかった偉大さと誇りと、そして、圧倒的な力をもってこの世界を変えていくだろう。その世界の行く末に向かう道のりの中に、いかなる困難や苦難が立ちはだかろうとしても、我々はそれらをもっていくらでも打破していけるはずだ。なぜなら、「存続する疑いようのない理由」が我々にはいくらでも存在するからだ。地球生命、その生態系、自然からの癒し、そして、文明の発展と個々が大切にしている人たち、恋人、両親、兄弟、親戚、友達、仕事仲間、親切にしてくれる見知らぬ人、何よりも「人を大切にする気持ちそのもの」、我々には圧倒的なバックボーンがどこにでも、いくらでもあるのだ。それらを胸に刻み続けていくことで得られるものは必ず、存在する。それがどのような形であれ、宇宙の片隅に位置するこの星に生まれてきた意味を理解するタイミングと重なる時が来るとするなら、我々が我々であること、人間であること、地球を代表する人類という生命であること、そして、この命が存在することの、揺るぎない答えを自ら見い出すことと同義になるだろう。だからこそ、目の前にあることを、成し遂げるのだ。私のみならず、「できる」と感じることを一つだけでも見つけ、実行し、完遂させていこう。

大丈夫、すべては「プロセス」なのだから。